こたに医院 | 日記 | 空海という巨人。

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こたに医院 の日記

空海という巨人。

2011.10.31


1200年前の人なのに、今もなお生き生き
とその存在を感じさせる、巨人。
それが、空海。弘法大師です。
俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)、讃岐地方
今の香川県の豪族の出自です。

自分の実家は、臨済宗ですが、西日本の
習慣でしょうか?
お盆になると、お遍路さんの詠う「御詠歌」
という、民間の仏教の教訓歌(短歌の形式で、
5・7・5・7・7で)を、詠ってまつりあげます。
詠み人知らず(作者不明)ですが、

ありがたや
高野の山の
岩かげに
大師は今も
おわしまします

ただ、それだけの歌ですが子ども心に、この
大師が、弘法さんのことって、知ってました。
たぶん、大人が教えたんでしょうね。
でも、その空海にとことんハマッたのはやはり
司馬遼太郎の「空海の風景」を読んでからです。
これは、名作です。
ていうより、最高に面白い。

若い頃の空海が山野で、修行に籠もっている
様子は、実は謎に包まれていますが、四国を中心
に今もたくさん残っている「大師伝説」は、あながち、
根拠のないものばかりではないのでしょう。
土木工事を指揮するエンジニアとしての空海像も。

その後、私費で唐の都、長安に渡りますが、同時期、
国費留学生として渡った最澄との確執は、非常に
興味深いものがあります。
結果として、中国の密教界では、最澄は一学僧として
扱われたのに過ぎなかったのに対して、空海は「大日
如来(世界の中心の菩薩)」の化生として、中国密教の
屋台骨も授けられてしまうのです。
「虚しく往きて、実ちて帰る」という、空海の言葉は、その
状況を言い表しています。
帰国後、京の都の鬼門(北西)封じのための寺院である
比叡山・延暦寺を約束されていた最澄に対して、空海の
受け皿はなく、空海の実力を知った朝廷は、慌てて、都の
南の「教王護国寺」今の東寺を与えました。
嵯峨天皇の時代です。
その後、都の政情に飽きたか、空海が高野山に去るまで、
真言密教の根本道場となります。

書道の臨書(手本を見て、書くこと)で、今も用いられる空海
の書の中で「風信帖」は、最澄が、弟子として、空海に師事
して、潅頂(洗礼の目的で、実際、頭部に水をかける儀式)
まで受けているのは、この二人の関係を考える上で面白い
ですね。
当時の密教は、鎮護国家のための「必需品」でしたから、
空海がどれほどスーパースターであったか、想像を超える
でしょう。

自分にとって、歴史上、会ってみたい人物の一人です。

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