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こたに医院 の日記

バザーリア精神衛生法

2011.07.30


これは、イタリアの話。
37才の精神科医フランコ・バザーリア
が、パードヴァ大学の精神医学教室から
マニコミオ(イタリア語で、精神病院のこと)
の院長になることを勧められました。

バザーリアは、精神科医でしたが、全ての
精神科医と同様に、マニコミオの正体に
ついて、一切、知りませんでした。
信じられないことでしょうが、大学の精神
医学の教官たちにとって、関心の的は、
「精神病の人々の人生」でなく「精神疾患」
だけだったのです。
バザーリアは、シーツの交換人に化け、
マニコミオの院内をくまなく観察し、地獄絵
のような実態を目撃しました。
「看守」になどなるつもりのないバザーリア
は、この「監獄」をぶち壊すか、院長就任を
辞退するかの選択に迫られ、社会学者の
妻に相談しました。
そして、1961年春、院長になりました。
鉄格子のある病室に入れたり、強制治療を
強いたりする「精神科医の特権」に異議を
唱えて、改革に着手します。
当時、マニコミオは「強制入院だけの収容所」
だったのです。
その中で彼は「自由こそ治療だ」というスロー
ガンに象徴される、後年、バザーリア主義と
呼ばれる運動を展開します。
1968年には、当時のイタリアの精神衛生法
が一部改正、「自由入院」が許され、結果、
バザーリアのマニコミオも、800人の収容者が
300人まで減少します。
院外に患者用住居を作ることに消極的だった
当局でしたが、ある事件のせいでバザーリアを
被告席に引きずり出します。
外泊した男性の患者が妻を殴り殺すという事
件でした。
裁判は無罪判決で終結しましたが、バザーリ
アは院長を辞任させられました。
1969年のことでした。

その後、キリスト教民主党左派のザネッティ
によって、トリエステの病院の院長に迎えられ
理想の精神病院作りに取り組みます。
入院患者を縛りつけていた全てを取り除き、
「病院の外での支え作り」をトリエステ県に
認めさせました。
長い「幽閉生活」を経て、社会性を喪失し、
社会人としての「コミュニケーション能力」の減
退した人びとの社会復帰の意欲も取り戻さな
ければなりません。
そうして「アッセンブリア(イタリア語で患者集
会)」が度々開かれました。
患者が不満や要求を吐き出す場です。
この時点で、すでに、バザーリアたちは、マニ
コミオを縮小・閉鎖すべきだと考えていたので
す。
バザーリアは退院した患者数に合わせて、職
員を院外に出し、外部での支援の拠点として
「精神衛生センター」を作り、最終的には7つの
センターができ、1978年には、病院はほとん
ど、空っぽになりました。
センターは、重症の人を在宅で支えるために、
1975年以降、24時間、365日オープン体制
になりました。
精神病院に代わる機能です。

そして、その後一つの社会運動として「民主精
神医学」という様々な人びとを包括する運動に
発展していきます。
結果的に、1978年、新しい精神衛生法が全
会一致で、イタリア国会を通過し、精神科医の
強制入院・強制治療の権限に大幅の制限を
加え、強制入院病棟も消滅しました。
まだまだ、保守的な精神科医もいる中、バザー
リア派と呼ばれる医師たちの努力が続いてい
ます。
白衣を着ずに、拘束衣も、電気ショックも否定
して、あらゆる「強制」に反対して、バザーリア
精神を忠実に守っているのです。

振り返って、日本の実情を見れば、このバザー
リア法がどんなにスゴイかが、分かります。
現在の「精神保健福祉法」によって、「自傷他
害」の恐れを精神科医が抱けば、鉄格子の中
に放り込める精神科医の「強権」が健在の日
本では、見方を変えれば「治安の責任の一端
を精神科医が担っている」ということなのです。
そう考えれば、この問題のありかが分かるでし
ょう?

まだまだ、道のりが遠いのです。
日本だけでなく、そのイタリアでも。



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