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こたに医院 の日記

戦後最高値:円高の行方。

2011.10.30


世界中の投資家に、すっかり、タカを括ら
れてしまっています。
この国の政治も、財務も。
情けないことに。

相場への介入は、ユーロ問題で揺れ動く
欧米の協調介入を得られる訳もなく、日本
単独では、効果も知れていて、連日、円は
戦後の最高値を更新し続けています。

「戦後の」というのは戦前の円との比較につい
てで、いわゆる「旧円」との比較です。
江戸時代の分(ぶ)や両の貨幣制度、それも
上方(関西)と江戸では、銀本位制と金本位制
の違いもありましたから、1871年(明治5年)
「円」という全国統一通貨が制定されたのです。
それも、当初、1ドル1円の固定相場。
その後、いったん、変動相場制となって、1ドル
2円となり、その後、為替の固定で、1ドル2円。
1931年の世界恐慌時に、国際収支の改善を
目的として、また、変動相場に戻り、1941年の
日米開戦の年には、1ドル4円26銭の「円安」
まで下がりました。

そして、敗戦。
戦争末期に決定した「ブレトン・ウッズ(米国・ニュー
ハンプシュア州の町の名)協定」に基づき設立された
IMF(国際通貨基金 International monetary fund)
により、金35オンス=1USドルとの取り決めから、当時
の日本の金相場から、有名な「1ドル=360円」時代が
始まるのです。
子どものころのテレビ・コマーシャルで確か国産の「トリス・
ウィスキー」の値段を「1ドル、マイナス60円」とか言って
ましたっけ?
その「360円」の固定相場制はこの国の輸出産業の復興
の原動力となったことは、決定的な事実です。
ちょうど、人民元の半ば「固定相場」で、今は、中国の産業
が潤っているのと、同じことです。
(それが、中国政府が為替の管理を手放さない理由です。)

それが、1971年のニクソン・ショックまで、続きました。
その後、いったん、1ドル=308円の「円の切り上げ」後、
さらに、現在の変動相場制に移行したのです。
そして、決定的な変化となったのが、1985年、米国・ニュー
ヨークのプラザ・ホテルでの「プラザ合意 Plaza accord」です。
その頃の米国は、財政の赤字と貿易の赤字という「双子の
赤字」を抱えていて、特に、対日貿易の赤字の解消のため
円を狙い撃ちしたのです。
プラザ合意後、24時間で、ドルは、235円から、20円安の
円高になり、1年後には、150円まで下落しました。
これで、ニクソン・ショック後の2分の1の相場です。
それでも、今の倍。

それから、4半世紀。
すでに1ドル=75円台までの円高水準まで来てしまいした。
3月に国土の半分近くを震災や津波で、夏には紀伊半島の
豪雨災害で、そして、節電による、工場の減産、企業の活動
抑制という、疲弊しきった、この日本なのに。
さらに、人件費高・円高を嫌い、海外の工場を起こした企業
には致命的なタイの洪水。
IT産業をはじめ自動車・カメラまで、日本の生産業に打撃を
与えています。
日本の通貨が、投機筋の餌食になっているのです。
一部の経済関係者の間では、欧米に比較して、やはり、健全
で力のある企業の揃っている日本の円だから、とか、言って
いますが、寝言でしょう。

この円高、どこまで、行くのやら?
誰にも、見通しが立たないのです。
政府が、為替介入(ドル買い=円をどんどん放出)する素振り
を見せても、すっかり、なめられてしまって。
情けないこと。
スイス・フランなど、決死の介入で、フラン高を食い止めたと
いうのに。

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