こたに医院 | 日記 | 「稲むらの火」

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こたに医院 の日記

「稲むらの火」

2011.11.04


この国の人は、皆、潔癖すぎるので
しょうか?
明治維新、太平洋戦争の敗戦。
この2つの出来事で世界が180度、
転換したかのように、思い込んで
しまい、それまでの価値観を全否定
してしまうのです。
ほとんど、ヒステリックに。
明治維新の際の「廃仏棄釈」もそうで
した。
確かに、封建時代、神仏混淆(こんこう)
が常となり、仏教の寺院と神道の神社が
融合していました。
そして、明治維新。
神道は、新しい政治体制「天皇制」の思想
上の根拠であったため、夾(きょう)雑物で
ある仏教が否定され、それに伴って、たくさん
の仏像が、破壊されたり、二束三文で海外に
売り飛ばされたりしました。

そして、日米戦争の敗戦。
それ以前のものは、すべて、否定され、唾棄
されました。
政治体制は無論、教育、倫理、有形無形の
あらゆるものが。
そのとき、冷静に、価値のあるなしを判断する
余地はなかったのです。
特に、教育現場では、それまでの教科書は
すべて、墨汁で塗りつぶされ、連合軍のGHQ
の顔色をうかがって、新しい教科書が作られ
ました。
新しい教科書には、柴刈りをする間も勉学に
励む「二宮尊徳」もいません。
全国の小学校の校庭の銅像も撤去されました。
勤勉が美徳であるということは、決して、誤りでは
ないだろうにも関わらず、です。
そして、墨汁で塗りつぶされただろう教科書の中
に、この「稲むらの火」という話も含まれていたの
です。
そして、今年度2011年から、再び小学校教科書
に採用された話なのです。
68年かけて、ようやく、再評価されて。

この「稲むらの火」は、もともと、1854年の「安政
南海地震津波」の際、今の和歌山県での実話を
もとに作られています。
地震後の津波の警戒、早期避難の重要性、人命
救助の犠牲的精神に関する教材として、かつての
「国定」教科書に載っていました。
村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震のあと、海水
が沖に退いていくのを見て、津波の来襲に気付き、
自分の田にあった刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)
に火をつけ、消火のために集まった村人を救った、と
いう話です。

実際には、安政の津波は新暦では12月24日の真冬
であり、すでに、脱穀を終えた稲の束であったことや、
実際、火をつけたのは、津波を予知してでなく、すでに
津波が来たあと、暗闇の中、高台への安全な避難路を
示すためだった様です。
その史実を基に、なんと、あの「怪談」の作者ラフカディオ・
ハーン(小泉八雲)が感動のあまり「A living god」という
英語の作品を著わしました。
五兵衛のモデルの濱口儀兵衛が、紀州有田では「生き
神様」として、敬われているためでしょう。
その八雲の作品を、さらに、翻案し、1934年の教材公募
に応じ、採用されたのが「稲むらの火」なのです。

今回の東日本大震災に伴う津波では、多くの犠牲者が
出ました。
中でも、宮城県石巻市の大川小学校の惨事は、考える
べき、多くの問題を含んでいました。
地震後、50分近く経って津波がこの小学校を襲った時
校庭に整列した児童・教職員、あわせて、79人が亡く
なったのです。
裏山に避難もせずに。
児童に避難の判断は無理だとしても、もし、教職員に
津波の恐ろしさ、早期避難の重要性が徹底できていたら
ここまでの犠牲はなかったと思われるのです。
「稲むらの火」が小学校の教科書から外されていた68
年間が、悔やまれます。

一つの逸話ですが、2005年1月のインド洋大津波の後、
インドネシアのジャカルタで開かれたASEAN緊急首脳
会議で、シンガポールのシェンロン首相が、当時の小泉
首相に尋ねたそうです。
「日本では小学校の教科書に『稲むらの火』という話が
あって、子どもの頃から、津波について教えているという
のは事実か?」
情けないことに、戦後世代の小泉は知らず、文部科学省
に照会したが、職員の誰も知らなかったというのです。

1903年当時、モデルの濱口儀兵衛の孫が、ロンドンの
The Japan Societyで、講演した際、八雲の「The living
God」を読み、感銘を受けたと現地の婦人に言われたとか。
何か、この国では、自国のいいものを無視してかかるよう
ですね。
心を開いて、いいものは、どんなに古い政治体制のもの
であっても、正しく、認めていきたいものです。

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